昭和五十一年七月二十四日


御神訓一、縁談に相性を改め見合わすより信の心を見合わせよ。


 相手の心が良くなければいけない、相性とはそんなことは問題ではない。本人と本人の性根を見なければいけない、性根を見合わせなければいけなというわけです。そこで相手の性根ばかり心の良い人でなければならん、心の良い人をと言いながらこちらの性根も改めずにこちらの心は見極めずに、ただ相手の心だけ良くなからなきゃいけん、性根が良くなかならければいけんといったってそうはいけませんですね。
 縁というものは不思議なものですから、やはり提灯に釣金は釣り合わない、やはり釣り合うたものどうしがそこに相寄り、相添うような結果になっております。だからこちらがここでは信の心を見合わせよということを、信心の信をもって表現してありますね。信の心を見合わせよと、悪人にはやはり悪人でなからなければ続きません。やはり善人は善人でなからなければいけません。ですから問題は自分自身の信の心を確かめ高めるということ。どういうところに焦点をおいて自分の信心を高めるか、信心は本心の玉を研くものと、信心は日々の改まりが第一というが、どこのところに焦点を置いての改まりであり研くであるかということであります。
 まあお道の信心では天地書付が芯ですから、天地書付にあるようないわゆる和賀心、和らぎ喜ぶ心をめあて、目指すとするけれどそういう和らぎ喜ぶ心を教祖が言われるところのおかげは和賀心にありとおうせられるほどしの心、いわゆる和らぎ喜ぶ心というのはその内容というのはどんなことなのか。あの人は大変喜びの強い人、心が大変円満な人というだけではないと思うです。天地書付にあるところの和賀心というのは例えていうならばどういう因縁の深い人であってもどんなに罪深い人であっても、その罪も因縁もです、その和賀心の前にはそれこそ霜に煮え湯をかける如しというように、消え去るほどしのものですから、ね、ただあの人は穏やかな人じゃ、あの人は喜びの強い人じゃだけではない。
 ね、信の心を見合わせよというその信の心、それを私は和賀心を目指すということであり、その和賀心というその一切の土台であり、それは仏教でいう因縁でもキリスト教でいう罪でもとてもとても因縁やら罪やら仏教的キリスト教的に説いたらもう人間は助かりようがないようにできてるです。そういう意味でやはり私は金光教の信心は素晴らしいと思います。ね、だからその和賀心の目指し方が、ね、心が平穏無事である、心に喜びを感じるというだけではなくてそういういわば信の心とはどういう心かというとです。
 昨日、月次祭の前講の時に三橋先生がお話しをしておりました。十日も前だったでしょうか、末永先生が今ここの屋根替えがあった、銅版がみんなかわっとるわけです。中々仕事がスムーズにいかんらしいです。それでそのちょっと表に出た時にそこに職人さんの責任者の方でしょう、本当にこの本館の方にかからしてもらうが、ここに三日雨が降らんならもう良かけれども、本館をしよる時に雨どん降りよるならもうどんこんでけんち言うて悔やみよんなさるところでした。それで末永先生がそんなことを心配なさるならば、親先生にお取り次ぎを頂いて、お願いをしなさい、そげなことをお願いしてよかですかち、ああおかげ頂きますようお願いしなさいというて、その職人さんをここに連れてきました。
 半信半疑のようでしたけれども、お話しを頂きよるうちにまたあちらに帰ってわざわざお初穂をしてみえてそんならどうぞよろしくお願いしますというようなことでした。私はなにげなしに二日間、それをお取り次ぎさせて頂いて二日間テレビを見せて頂きよりましたら、福岡の方は曇り後雨というのが二日続きました。ところが筑後地区のところだけは曇り時々晴れと二日間続けて出ました。ああやっぱり神様がこの筑後地区だけはおかげくださるなと私その時思いよった。
 後から聞かせて頂いた話ですけれども嫁が田主丸の方へ買い物に行ったら、すぐそこまで行ったら土砂降りやった、ここはどうなっとらん。それから久留米の方から来る人がその辺までは降っとるのにここは全然雨気がなかったという四日間が続きました。いうならば降らず照らずのこの鉄板の上でお仕事をなさるのに本当に都合のよいお繰り合わせを頂いた。まあこれは合楽ではみんなそういうおかげを頂いておられます。 しかしそういうように天地が自由になるほどしのことというたら、私は本当にやはり大奇跡だと思うですね。
 今月からあの新聞が出ます。その新聞の名をつけないかん、ね、。以前ここから出よりましたのが願いという新聞でしたがね。今度は合楽だよりということにしようと、そこで私にそれを書くように言ってきましたけれども今度の新聞は私が書いたとじゃいくまいと。おかげの泉が毎月出ておりますがあれはどこまでも分かってくれよ分からせようとするご本であり、あれはそのままが扉にも書いてありますように少なくとも十回は読んで下さい。
 必ずおかげになる。皆さんが御神前にお供えになさっておられるおかげの泉を何か心にかかったり迷うたりする時におし頂いてみなさんがそれを頂かれる。必ずそこに答えが出て来るというようにおかげを頂くためのあれはご本ですから、まあ合楽ではそれを聖書としてみなさんが大事にしておられる。けれども今度の新聞はそうではない。今度は信者側の方、おかげを頂く方の人達がです、各信心して各おかげを頂いたというおかげ話を載せる新聞であるからこれは信者さんが書いた方がほんなことじゃろうと私は思うから誰か信者さんに書いてもらえと私が申しました。
 今度は奇跡のおかげを受けたシリーズになるようです。だから奇跡的おかげを受けるということのシリーズはもういつまででも続くと思うです。いついつ頂いたばってんその代わりこっちは奇跡がおきんというのはないてすから。ゆうべのお話しで申しましたように、昨日東京からおみえになられた方なんか、病名は忘れました。一番初めは白血病でした。だからお医者様はもう三日しかもてないという親戚に通知があって、親戚の方がお願いに来たのです。それが何とかというガンに変わった。それも大変難しいガンだそうですけれども、まあ良くならんとは言えん、いうなら助かる可能性が少しある。昨日お礼に出て来ましたのはね、そのガンが今度は胃ガンに変わっとるという。大体そげなんことがあるもんだろうかと思いますね、実際。病気が変わっていくわけです。そして三日しかもてんというその人がです、ご飯がいけるようになり、血色がよくなり今はオリンピックのテレビを起きてから見るほどしのおかげを頂いて、昨日東京からわざわざお礼に見えた。だからそれを聞いてからそげなんことがあるもんだろうかと、医学ではそういうことはありえないと言うんです。ところがそれは事実なんだから、やはり奇跡というほかはない。
 ね、そういう奇跡のシリーズになるようです。いうならばおかげの泉がおかげを頂かせたいという文章布教であるならばです、それによっておかげを受けたという人達がです、おかげ話をかえってみなさんにもこういうあらたかな神様だ、こういうおかげの受けられる信心だということをいうならばPRする、いうならばPRち言うたらおかしいですけれども、合楽示現活動のシリーズをしたいというのであります。昨日その新聞の合楽だよりと書いたのが図案化して私のところにもってきました。どちらを使ったらよかろうかと、誰が書いたのかと聞いたら久留米の隆一君が書いたと、石井さんところの長男です。この前の壮年大会の時のポスターを書いた人です。そういう美術学校に行っとるです。だから中々やっぱり上手です。それ二つ書いてきとりますのに、ひとつはお父さんがおそらくヒントを与えたんでしょうね、車えびがこう跳ねたような図案、下の方にイカが半分ばっかりこう出て、そこへ合楽だよりとこう書いてある。中々いい、けどもこれはエビとかイカとかでは水兵さんの看板のごたる、これはどうかねと。二つめは私のこの梅鉢がぱっとミカンを半分にしたのが図案化してあるわけです。
 だからこれが良かと言うて、それに決定したわけでございますけれども、例えばそのイカといい、例えばエビといいね、エビのお知らせをここで頂くと修行と頂いとる。イカということは改まるということ。いかんところを改めて行く。それを段々干し上げてするめにしようといったようなご理解を頂いております。イカのお知らせを頂いたらいよいよ改まらなん、ね。えびのお知らせを頂いた本気で一つ修行をさせてもらわなんいかんというわけであります。それからそのもう一つのはいわゆる梅鉢の私の紋と、みかんを半分に切ったいうならば菊花模様になってるわけです。ね、合楽の信心のシンボル。
 梅の花は私の信心、同時に信心辛抱と言われておる。菊の花は喜び久しいお徳を受けます。そういう花の中でも菊を合楽では一番尊ぶわけであります。ね、私は思うのにね、信の心を見合わせよ、信の心というのはエビの修行であり、いよいよイカの改まりであり、信心辛抱梅の花であり、そして心の和らぎ喜ぶ心、和賀心、いうならば菊の花のような状態が心に開けてくるということを願わせてもらう信心、ね。しかもそれは和賀心を目指す、和賀心の内容になるものがこんど合楽だよりの図案になっておる、そういうようなことが内容になっておる。それをもう少し具体的に言うと、教祖様のお言葉であるところの天地日月の心になること肝要なりであります。
 改まりも辛抱も、または修行も、いうならば天地の心を心とするということ、神様の心を心とするということ。それを具体的に言うたら天地日月の心、神様の心を心とするということを具体的に表現しておられるのが天地に月の心。いうなら天地日月の心を具体的に言うならば、天の心とはもう限りなく広く大きく、しかも与えて与えてやまないしかも無条件にというような心を目指さなければいけんのです。限りなく美しゅうなりましょう、当時合楽の合言葉であったようにです、いうならば天の心を心としようと言う地の心を心としようという、大地の心はまた受けて受けて受け抜く心、いうなら黙っておさめる、どういう汚いものであってもそれを黙って受ける、そして自分の信心の根肥やしにしよう、いよいよ自分の心が太く豊かになっていくことの、いわば根肥やしにしていこうというようなことを地の心という。
 この二つが足ろうた時に天地の心、しかも日月の心、ね、いうならば実意丁寧神信心。ね、信心に忠実である。行き方が実意であり、丁寧である。そういう心を目指させて頂くという信心を私は天地日月の心になること肝要という内容だと思います。ね、そこでです、合楽で奇跡が相次いでおると、皆さんが本当にお願いをしてただ電話だけでもおかげ頂いておる、お手紙だけででもおかげを頂いておる。ね、おかげを頂くというだけならそれだけでも良いけれども、信心を頂くといういわゆる今日の信の心ですね、信の心です、を頂くためにはただおかげだけを頂いておったんでは信の心は生まれないということ。
 その信の心を頂くためにはということを今日は色々聞いて頂いた。ね、そういう例えば天地日月の心になることが肝要だというところに天の心を心としてという焦点をおいての信心に与えられるのが、和賀心、和らぎ喜ぶ心。神様を絶対信じて疑わない、喜びが崩れない、いうなら心が段々育ってくるのです。それを頂いてしまわなければいけんというのではなくて、眼目をそこにおいての信心でなからなければいけないということです。私の信心がそこまで完璧というのではないのですけれども、私がなら天地のこと、天候のことをお願いすれば神様がそれこそ合楽教会の上だけ降らんといったようなおかげを頂いておるという事実でございます。
 それは私が天地の心を心としておかげを頂きよるから神様もまた私の心を心として、私の願いを願いとして天地が働いて下さるんだと私は信じております。縁談に相性を改めるより、だから本当言うたら金光様の信心をさせて頂いておれば相性なんかはあろうはずはありませんから、相性を見合わせるということはせんけれども、やはり信心を頂いておっても家は頭筋じゃから頭だけは良うなからなきゃいけんとか、家は器量筋じゃけん器量だけは良うなからなきゃいけんとか、家は心筋じゃけん心だけは良うなからなきゃいけんというのは良かけれどもね、あれは妙なもんですよ、頭良かとこ人達はみんな嫁さんもらうでん頭の良かとを調べる。
 だからそういうようなね、わがままからでる選び方は間違いです。天地の親神様にお願いしてそれこそ北野の秋山さんじゃないけども、息子が二人おる、娘も何人もおる、年頃になるとちゃんと高校を卒業する頃にはお母さんがお取り次ぎを頂く。社会に出てどういう方と、異性の方とお付き合いをするようになるか分かりませんから、家の娘に一番釣り合った人と知り合いになったりお付き合いができるようなお繰り合わせをそれこそもう蕾の時から願ってある。素晴らしいですね。だから蕾ですから確信ができるんです。こんな人と職場で知り合ってお付き合いをしよる、その人の名前はなんというのと言うてお取り次ぎを頂く。どういう風に恋愛なら恋愛が進展していっても親は一つも不安がない。神様が家の娘に一番ふさわしいいうならば信の心を見合わせて神様が下さるんだと信じておるから「あんたあげなん人と付き合うてから」ということがなかわけです。親の意見も聞かんなということがないわけです。私はこれは素晴らしいと思うですね。 私は信の心を見合わせてということはそういうことだと思うです。ですから見てみなさい、あそこの嫁ごにしろ、もらってもらった息子たちにしろ本当にその娘にその息子にあつらえたごつ素晴らしかです。秋山さんのおかげ話を子供達のことについて話される時にそれを言われるでしょう、ね。だから自分が選ぶというようなことに間違いがあるです。神様におすがりをさせてもらって前々からそのことを願い、お取り次ぎを頂いてそこに現れてくるところの実証、事柄というものを合掌して受けていくという行き方。まさしく天地日月の心であります。
 家の息子にあげんとかよか、こげんとがよかと親が心配せんでよか。見合わすというよりも、私共が見合わすのではない、神様が見合わせて下さるならもう絶対間違いがない。同時にです、良い人を頂きたいと思うならまず良い人にならなければいけないということです。釣り合わない。自分の心は曲がっとってからもらう人はまっすぐの心の人をもらおうてんなんてんそれは虫がよすぎるです。ね、本当に心のまっすぐの嫁をもらおうというならば、もらう方の側も真っすぐな心にならせて頂かなければ信の心を見合わせるということになりません。ね、自分が五十の力を持っておるならやっぱり嫁ごも五十の力があるところからもらわなんと言えます。いうなら家と家も釣り合わなければいけんというわけです。そんならば自分ところの家に力を頂かなければでけません。
 縁談に相性を見合わすより、信の心を見合わせよと。私今日は信の心ということを聞いて頂いた。そしてそれがです、天地がいっつも味方である、天地にいつも御守護を受けておるという実感した、安心した生き方ができる、その安心、その心に見合わせられたものが集まってくる。見合わせられたものが財が集まってくる。ね、お店をするでも人材がやっぱり第一です。番頭やら店員さんだけは良い心の人をと言うて、主人が悪い心であって良い人が集まってくるわけ絶対ないです。家の店員がどうのこうのという時には自分自信がもう少し高めなさいと言います。その高められた心に釣り合うた人がやってくる。これは私のいうなら持論です。
 ですから良い人が集まってきてほしいならば、私がまず良い人に精進させてもらわなければならないという風に今日のこの御信訓を、信の心を見合わせよ。ということは私の力なりのものが集まってくる。私の人となりがそのまま周囲に集まってくる人達もやはり同じようなことだということを聞いて頂きましたね、どうぞ。